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2022/12/21

梅原大吾の“スキサガシ” 「好き」と「世間の評価」を分けてみる。- あの人の履歴書Vol8

就職・転職

「やりたい仕事が見つからない」「好きなことを仕事にしたいけど、好きなことがわからない」。そんな悩める就活生に向けて、自分の「好き」を見つける“スキサガシ”を応援するインタビュー企画。 今回、登場するのは、日本初のプロゲーマーとして世界中のゲーマーから尊敬を集める梅原大吾さん。「好きなことはあるけれど、それが直結する職業が存在しない」という状況で、悩み、考え、模索した梅原さんの“物事の見方”から、きっと就活をやり抜く勇気とヒントがもらえるはず!

梅原大吾の履歴書

梅原大吾さんの履歴書画像

とにかく対戦することが楽しかった少年時代

梅原大吾さんのポートレート

 

梅原大吾

1981年生まれ。青森県生まれ、東京都足立区育ち。11歳で格闘ゲーム「ストリートファイターⅡ」に出合う。その後、国内外のゲーム大会に出場し、優勝も含め輝かしい成績を収める。しかし23歳の時にゲームを辞めて、麻雀や介護の道へ。その後、2008年にゲームに復帰、翌年米国の大会で優勝し、劇的なカムバックを果たす。2010年に米国企業とスポンサー契約を締結し、日本初のプロゲーマーとなる。同年「世界で最も長く賞金を稼いでいるプロゲーマー」としてギネス認定。毎年アメリカで行われている格闘ゲーム大会「Evolution Championship Series」にて2009年より5年連続ベスト8入りし、大会歴代記録を更新。同大会における2年連続優勝(2009年、2010年)も歴代記録となっている。国内ではウメハラ、海外ではビースト(Beast=野獣)のニックネームを持つ。

Twitter:@daigothebeastJP

Instagram:daigothebeast

YouTubeチャンネル:Daigo the BeasTV

公式サイト:www.daigothebeast.com

 

────5歳の頃に、スーパーファミコンでゲームのおもしろさに初めて触れた梅原さんは、ゲーム“も”普通に好きな、元気な少年でした。

 

梅原:運動もできたので、みんなを引き連れて外でも遊ぶ、リーダータイプの子どもでした。負けず嫌いで、ゲームに限らず、負けたら勝つまでやる性格。勉強は大嫌いでしたね(笑)。

 

────そんな大吾少年が、自身の運命を決定づけることになるゲームに出会ったのは11歳の時。大ブームを起こした対戦型格闘ゲームの「ストⅡ」こと「ストリートファイターⅡ」(アーケード版)でした。

 

最初から上手に操作ができたかというとそんなことはなく。負けず嫌いの性格が奏功し、練習を重ねた結果、仲間の中で一番強くなったそうです。

 

梅原:子どもの時から勝負事が好きでした。でも、当時はゲームで勝負するのは難しかったんです。シューティング系で点数を競う勝負はまだ行われていなかったし、対戦ゲームも少ない。腕相撲は気軽にできるけれど1回やればどちらが強いかがわかってもういいやとなりますし、将棋は勝負が決まるのに時間がかかるから休み時間に気軽にできない。

 

人と勝負したいのに勝負するものがなかったところに、アーケードゲームで格闘ゲームが登場したんです。ワンプレーに50円、100円はかかりますが、年齢、性別関係なく誰とでも気軽に対戦できるし、勝てば続けてプレイできる。当時の僕にとってはめちゃくちゃ魅力的でした。ゲームセンターの非日常感やスリルにも、ワクワクしましたね。

 

梅原大吾さんの名言1

 

────その後梅原さんはメキメキと頭角を現し、15歳で日本を制覇。そして、17歳で世界チャンピオンに輝きます。今でこそ「日本初のプロゲーマー」として憧れの存在となっている梅原さんですが、当時は「プロになる」はもちろん、「ゲームが仕事になる」という発想すらありませんでした。

 

梅原:全国大会や世界大会で勝ったとはいえ、「これが俺の生きる道だ!」とはならなかったです。そもそも、自分もゲームセンター仲間も誰一人として「ゲームが趣味」と公言する人はいなかったくらい、当時ゲームをプレイする人は変わり者扱いで、社会的な地位が低かったんです。不健康で、社会的に何も生み出さず、お金を使って時間を無駄にして、娯楽から抜け出せない怠惰なヤツら、みたいな存在。だからみんな自己肯定感がすごく低い。

 

17歳で世界チャンピオンになるまでは、そういうコンプレックスがありつつも、モチベーションはありました。でも、頂点を極めたにも拘らず、自分の環境が何も変わらなかったときに「こんなもんか……」と絶望してしまった。そこからは、毎日ゲームセンターに行きながらも、「いつまでこれやってるんだろう?」「人生どうしていくんだろう?」「いつかは辞めなきゃ」という葛藤が常にありました。

 

梅原大吾さんのインタビューカット

 

────自己肯定感を高めるために、大学生や一般企業の会社員という肩書を得て、ゲームを趣味として続けるという方法は考えなかったのでしょうか?

 

梅原:考えましたし、そういう肩書というか“仮の姿”が死ぬほど欲しかったです。好きなゲームに没頭するということは、金銭的にも時間的にも周りの評価的にもマイナスでしかない。だから当時の僕は、とにかく普通だと思われたかった。大学生になるとか、スーツを着て会社に行くとか、そういう社会の当たり前の姿にすごく憧れました。でも、いかんせん性格的に無理でしたね。好きなこと(ゲーム)にのめり込んでしまうので。結局、一般的な企業には一度も勤めたことがありません。

勝負の日々から離れ介護職の道へ

梅原大吾さんのインタビューカット

 

────高校を卒業後は実家で暮らしながら、10以上のアルバイトを転々とし、大晦日と元日以外は毎日ゲームセンターに通うという生活が続きます。そんな梅原さんに、両親は「ゲームを辞めろ」とは一度も言わなかったそうです。

 

梅原:父親の教育方針として、子どもが好きなことには何があっても口を出さないという鉄の掟があったようです。

 

ちょっと話は脱線しますが、梅原家は曽祖父から代々、僕にとってそれがゲームだったように、好きなものに関しては人よりも秀でていたらしいんです。でもその道で食べていこうとすると、その都度、親や周りから反対されてやらせてもらえないというのが代々続いていたらしく、その鬱憤がたまっている家系なんです。

 

僕の父親はその連鎖を自分の代で断ち切ると決めていたようです。そのため本当は口出ししたくて仕方がなかったと思いますが、僕に対しては促す程度でした。「俺たちもいつかは死ぬから、その時までに生きるための手段を考えろ」とは、顔を合わせるたびに言われました

 

梅原大吾さんのインタビューカット

 

────17歳で世界チャンピオンになってからの6年間は意外にも、出口のない中でもがき続ける苦しい日々だったといいます。

 

梅原:何かないかな」、「誰か僕を見つけてくれないかな」、という気持ちが常にありました。確かにゲームは役に立たないかもしれないけれど、世の中には生きていく上で必要じゃなくても職業として成り立っているものはいっぱいあるじゃないですか。スポーツもそうですよね。だから、俺の個性を認めてくれる人や場所があるのではないか、という期待は若干ですけれどありました。これだけ時間と熱意を注いでいるものなので、「人生が変わるきっかけにならないかな」、「俺ってそんなに駄目かなぁ」、という心境でしたね。

 

────益々自己肯定感が低くなっていく中、23歳の時に、ついに梅原さんはゲームを辞めて別の道へ行くことを決意。一度は雀士の道を選ぶも、25歳で「勝負事から離れたい」という理由で介護職に就きます。あれこれ詮索しない優しい人たちに恵まれて、“勝負漬け”だった心身をデトックスし、穏やかな日々を過ごしていた梅原さんに、悪魔の囁きが聞こえてきます。

 

梅原:介護の職場では、みんなに優しくしてもらって、本当にいい仕事に巡り会えたなと思っていました。

 

ところが、ある日、昔のゲームセンター仲間から「ストリートファイターⅣ」が出たからやろうよと誘われたんです。「ようやく勝負中毒から抜け出せたんだからマジで誘わないでくれ」と断り続けたのですが、執拗な誘いに負けてゲームセンターに行ってしまった。彼にも自分にも「一回だけだから」と言って。そしてあろうことか、最初から順調に勝ててしまったんです。

 

久々に行ったゲームセンターで、初めてプレイするゲームにも拘らず自由自在に操作できて、人もたくさん集まってきて。長いこと「俺はなんて駄目なヤツだったんだろう」と思っていたのが、その時に「そういえば俺って得意なことがあったんだ」と思い出したんです。そして、昔のように夢中になるのは許されないかもしれないけれど、息抜きや自己肯定のためであれば少しやってもいいんじゃないかなと思い、介護の仕事をしながらゲームセンターに通い始めました。

 

梅原大吾さんの名言2

 

復活、そしてプロゲーマー梅原大吾の誕生

ゲームをプレイしている梅原大吾

 

────梅原さんにとっては軽い気持ちで再開したゲームでしたが、ゲーム業界においては「あのウメハラが帰ってきた!」と大騒ぎに。その後、アメリカで開催された日米韓のチャンピオンが三つ巴で戦うイベントに特別枠で出場して優勝し、その特典として招待された世界大会でも見事優勝。そしてついに、アメリカのゲーム関連企業から1年間のスポンサー契約を申し入れられ、2010年に日本初のプロゲーマー、梅原大吾が誕生しました。

 

梅原:ゲームが仕事になったことへの感動が、並大抵のものではなかったです。「今年1年頑張れば来年も仕事としてやれるかもしれない」、「ずっとゲームをして生きていけるかもしれない」と。

 

この時の1年は、本当にどうなってもいいやという覚悟で1日18時間はプレイしていました。食事と睡眠時間以外はずっとオンラインでゲームでしたね。でも、睡眠障害が出てしまって。多分自律神経がおかしくなったんでしょうね。精神と肉体の限界が来ました。その年、大会では優勝はしましたけど、「あ、これ以上やると頭がおかしくなるな」と自覚し、練習量はちょっと控えるようになりました。今振り返っても、この1年間は我ながら、鬼気迫るものがあったと思います(笑)。

 

────好きなことを仕事にした梅原さんですが、意外にも、ずっと「好きなことがない」と悩んでいたそうです。

 

梅原:ずっと、仕事に繋げられる“好き”を持っている人が羨ましかったです。今はゲームで結果を出せているから素直に認めてられていますが、当時20代前半の頃に、人から「ゲームが好きですか?」と聞かれたら、多分「別に」とそっけなく答えていたと思います(笑)。いくらゲームが好きでも仕事にならないということで、自分の中でシャットアウトしていたんだと思います。

 

コントローラーを操作している梅原大吾さんの手元

 

「僕も同じように好きなことに打ち込んでいればいつか仕事になりますか?」と聞かれても、答えはわからないです。なれるかなれないかは、多分運です(笑)。現に父親や祖父、曽祖父は、好きなことを仕事にできなかった。四代目の僕だけが、たまたま運良く“好き”を仕事にすることができた。

 

僕が思うのは、学生のみなさんも、世間的な評価や、生活できるできないは考えず、純粋に「自分って何が好きなんだっけ?」と考えてみると、自分だけの“好き”が見つかる気がするんです。そして、現実は現実として受け入れて、好きなことは人の意見に左右されずに続けていいんじゃないかなと思います。

 

それがどうなるかはわからないですし、僕の場合は結果論だしレアケースなのであまり大きなことは言えないですが、人生何があるかわからない、ということは確信もって言えます(笑)。

 

梅原大吾さんの名言3

ブレることのない「ゲームをプレイすることが好き」という信念

梅原大吾さんのインタビューカット

 

────高校卒業後、ゲーム雑誌からのライターの誘いを梅原さんは断りました。ゲームメーカーなどで開発の仕事をするという意欲もなかったそうです。その理由を梅原さんは「信念があったから」と説明します。

 

梅原:結局、現実は受け入れたけれど、ゲーム関連のどこかに拾ってもらえばいいや、というのは性格的に嫌でした。僕が好きなのはあくまでもゲームをプレイすること。プレイヤーから離れるなら、ゲーム業界とも関わらない。その信念がなかったら今の自分はなかったと思います。

 

────幼い頃からゲームを取り巻く環境に翻弄されながらも、ゲームに対して純粋さを持ち続けてきた梅原さん。好きなことや熱中できるものがあることの喜びと苦しみの両方を味わってきた彼を支えたのは、両親の「大丈夫だ、死にゃしねえから」という口癖でした。

 

梅原:僕が不安に思っていたり、どうしようかなと困っているときは、いつもその言葉を言ってくれました。両親は医療関係者なので、人間の最期にたくさん直面してきました。だから生と死にはっきりと線引きしているし、両親の「死ななければやり直せる可能性がある」という考え方には説得力がありました。

 

今でも、困った時は「まあいっか、死にゃしねえから」とは思うようにしています(笑)。

 

梅原大吾さんの名言4

 

────その言葉は、就活生にとってもエールになりそうです。

 

梅原:そうですね。就活のように社会的な評価や競争で負けることがあっても、人生がそれで終わるわけではありません。思わぬところに逆転の芽があったり、もしくは逆転なんかしなくても充実や幸せが見つけられるかもしれない。この歳になると本当にそう思います。

 

あと、エールとは少し違うかもしれませんが、ちょっと気をつけてほしいなと思うのは、他人をないがしろにしないということ。自分の周りを見ていると、他人を蔑むような嫌な人間は結局、悲惨な目に遭っていている。他人を適当に扱うと、思わぬところで足をすくわれることもあるし、競争ばかりに目が行ってると大事なところで上手くいかなかったりする。ちょっと綺麗事に聞こえるかもしれないけど、僕は物事をそういう風に見ています。

 

梅原大吾さんのポートレート

 

────eスポーツという言葉も分野もない時代から、プレイヤーとして常に第一線で活躍し続けてきた梅原さん。そんな彼が考える“スキサガシ”の極意は、世間的な評価や、生活できるできないは考えず、純粋に「自分って何が好きなんだっけ?」と考えてみる、ということ。

 

立ち止まったり、時には道を間違えたとしても、常に真摯な気持ちで自分の“好き”と対峙し続ける。その強く純粋な想いが、“運”を呼び込むのかもしれません。

 

生活の心配をすることなく安心してスキサガシを、そしてこれから先も“好き”を好きでい続けられるよう、日研トータルソーシングでは、就活生のみなさんにいつでも扉を開いております。興味がある人はこちらをご覧ください!

 

(企画・編集:株式会社LIG / 取材・執筆:須永貴子/ 写真撮影:畠中彩)

 

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